大仁田 厚 (おおにた あつし)
1957年10月25日生 長崎県出身、明治大学卒、元参議院議員(文部科学委員会理事、災害対策委員会理事)
長崎の生まれ。祖父は熊本出身、母は佐賀出身の九州人。実家は長崎市内で大仁田風呂敷店を営んでおり、裕福な家庭に育つも両親が離婚。父親に引き取られるも親の事業不振などもあり、苦労の多い幼少期を過ごす。
長崎市立桜馬場中学校卒。中学生時代は新聞配達少年だった。
中学を卒業したのち、日本一周徒歩旅行を敢行。
当時からプロデュース能力に長けていたのか、自ら新聞社に売り込み取材を受ける。また、過酷な徒歩により運動靴が傷んだ際は、月星シューズ(現・㈱ムーンスター様)を訪問しスポンサーの依頼をする。温情により新しい運動靴を頂戴した。
長崎県庁前から神戸までたどり着いたものの、所持金が尽きたため日雇い労働を始める。その最中、実家が火事に見舞われ長崎に戻ることになり、日本一周徒歩旅行は断念された。
1973年、15歳で全日本プロレスに新弟子1号として入門。同期の渕正信、故・ハル薗田らとともに、「若手三羽烏」と呼ばれた。ジャイアント馬場の付き人を経て、1981年より海外修行へ。ドイツ、フランス、イギリスなどヨーロッパを経たのち、プエルトリコへ。その後テリー・ファンクの助けをかり、アメリカへ移動。渕正信とタッグを組み、AWA南部タッグ王座を争うなど徐々に頭角を現す。
1982年、ノースカロライナ州で、テリー・ファンクの推薦を得てNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦。対チャボ・ゲレロ戦に勝利し、チャンピオンの座に就く。メキシコ遠征をおこなった後、帰国。しかし当時タイガーマスクが一世を風靡していた日本マット界のジュニアヘビー級で、大仁田は苦戦を強いられる。
1983年、左膝蓋骨粉砕骨折の大怪我を負う。これが原因で1985年1月、後楽園ホールでプロレスラーを引退。全日本プロレス引退後は、タレント、事業を行うも振るわず、宅急便配達員や土木作業員として生計を立てる。
転機が訪れたのは、ジャパン女子プロレスコーチに就任し、グラン浜田戦で復帰した後。
手元にあった5万円と、人に借りた2万円を足してプロレス団体FMWを設立。1989年に名古屋市露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を行った。1990年8月4日には、自ら考案した「ノーロープ有刺鉄線電流爆破」デスマッチを汐留で行い、その後は電流爆破によるデスマッチ路線を突き進んだ。
1993年九州巡業中に鹿児島で倒れ救急搬送。敗血症にかかり助かる見込みは30%といわれる中、生還。
ICUで治療中のこの時、臨死体験をしている。死の淵からの生還は、後の大仁田の「生きる」ことへの考え方を大きく変えることになる。
1995年5月5日、川崎球場で2度目の引退。しかし復帰してFMWのリングに上がり続けるも、1997年に自分が興したFMWから追放される。
中卒でプロレス界に入ったため、学歴に対するコンプレックスもあった。「今からでも遅くない」と一念発起して40歳で高校入学。卒業後の2001年、明治大学に入学。
同年、第19回参議院議員選挙比例区にて46万票で初当選。
文部科学委員会理事、災害対策委員会理事を歴任。
大仁田厚の参議院議員時代の活動内容は以下をご覧ください。
大仁田厚のこれまでの政治活動
2001年、パキスタン内アフガニスタン難民キャンプ視察、2002年には、アフガニスタン訪問。カルザイ大統領との会談を行い、共に平和を祈願する。現地にて復興祈願プロレス大会を開催。
2005年、明治大学卒業。
2012年、義父の介護の経験から、ホームヘルパー2級取得。デイサービスを経営し、自らも体操を担当。
2015年、「プロレス地方創生!いじめ撲滅!」をテーマに、全国で電流爆破の試合を行う。
2017年8月5日、アメリカで初の電流爆破デスマッチを行う(CZW参戦)
2017年10月31日、「大仁田厚ファイナル後楽園ホール大会」で7年ぶり7度目の引退。
2018年4月、佐賀県神埼市長選挙に出馬するも惜敗。拠点を故郷の九州に移す。
2018年10月28日、プロレスリングA-TEAM鶴見青果市場大会において、7度目の復帰。
2019年4月14日、プロレスラーデビュー45周年を迎えた。
2021年7月4日、新団体「FMWE(FMW-explosion)」旗揚げ。電流爆破に特化した大会を行う。同年10月31日、アメリカ・ニュージャージー州トレントン球場で、共同開催により長年の夢だったオリジナルの電流爆破の試合を成功させた。
プロレスラーとして活動する他に、企業様、学校様をはじめとする講演会の講師として登壇し、「こんな生き方があるんだよ」「中小企業だって個性を活かせば伸びていける!」と熱いメッセージを送り続けています。
現在もなお進化するレジェンドとして目が離せません。